テーマ 6遺伝子は実在します
ユーゴー・ド・フリース、カール・コレンス、そしてエーリヒ・フォン・チェルマク-セイセニックは、1900年にメンデルの法則を再発見した3人の科学者でした。彼らは皆、異なる植物の雑種を使ってそれぞれ独立に研究し、遺伝についてメンデルと同じ結論に辿り着きました。ロバート・フックは細胞について述べた最初の科学者のひとりでした。テオドール・シュワンは、細胞を生命の単位として再定義しました。
カール・エリック・コレンス(1864-1933)
カール・コレンスはドイツのミュンヘンで生まれ、幼い頃に孤児になりました。彼はスイスで叔母に育てられました。1885年に、植物学を学ぶために、ミュンヘン大学に入りました。メンデルがエンドウの実験結果を送った相手である、カール・ネーゲリはすでにミュンヘン大学では教えていませんでした。しかし、ネーゲリはコレンスの両親を知っていて、コレンスに興味を持っていました。ネーゲリこそが、コレンスに植物学への興味を抱かせ、コレンスに学位論文のテーマをアドバイスした人でした。ネーゲリとコレンスのつながりは科学上のこと以上のものでした。コレンスはネーゲリの姪の娘と結婚したのでした。
1892年に植物を用いて形質の遺伝の実験を始めた時、コレンスは、チュービンゲン大学の教員でした。コレンスは、すでに、ネーゲリから聞いて、メンデルのヤナギタンポポの実験を知っていました。しかしながら、ネーゲリはメンデルのエンドウの結果について話すことはありませんでした。それで、コレンスはメンデルの遺伝の法則を最初は知らなかったのです。しかし1900年までに、コレンスが自分の結果を報告する論文を提出した時には、その論文は “異種間の雑種の子孫の性状に関連するG. メンデルの法則”と呼ばれていました。コレンスとド・フリースは、最も明確にメンデルの法則を“再定義”した人たちでした。メンデルは論文の中で、“異なる特徴の組み合わせの法則”と“独立組み合わせの法則”について述べていました。メンデルは、因子の分離は生殖細胞が作られる時に起きる、と示唆していました。コレンスは(ド・フリースの功績と共に)、メンデルの結果を再記して、メンデルの分離の法則とメンデルの独立の法則を私たちに伝えました。
コレンスはドイツで遺伝学の研究を活動的に行いました。また、科学上の功績や認知について、決して問題を起こすことのない温和な人でした。彼は自分の他の研究がより重要であり、メンデルの法則の再発見は、ただ彼の他の仕事に役立ったに過ぎないと信じていました。コレンスは、ド・フリースが最初のフランス語版の論文でグレゴール・メンデルのことを言及しなかったことに、立腹していたようです。功績は認めるべき時には認めなければなりません。
1913年に、コレンスはベルリン-ダーレムに新設されたカイザー・ウィルヘルム生物学研究所の初代所長になりました。不幸なことに、1945年にベルリンが空襲を受けた時に、彼の研究のほとんどは出版されることなく破壊されてしまいました。
テオドール・シュワンは、卵や卵子は細胞だと認識していました。1841年に、精子は精巣細胞からできることから、細胞に分類しました。
現存する1個の細胞として、最も大きなものはなんでしょう?