テーマ 12進化は遺伝子変異から始まります
チャールズ・ダーウィンの進化論によって世の中は変わりました。彼の理論はまた、科学者たちに遺伝と遺伝形質についての問題を考え直す機会をもたらしました。それはメンデルの法則の再発見や遺伝学の分野としての進化学の発展へとつながりました。ジョージ・シャルは実験進化研究所で研究しました。彼はトウモロコシや他の農作物の収量を上げるために遺伝学を利用しました。
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- チャールズ・ロバート・ダーウィン(1809-1882)
ジョージ・ハリソン・シャル(1874-1954)
ジョージ・シャルはオハイオ州のクラークカウンティの農園に生まれました。彼は幼い頃から植物や雑種について詳しかったとのことです。父親は農場主で母親は趣味で園芸を楽しんでいました。農園での必要性から、シャルの初期の正式な教育はその時々のものでした。しかしながら、家庭での集中した補習のおかげで、1892年までに、彼はパブリックスクールで教えるようになり、アンティオキア大学に通うようになりました。
1901年に、彼はアンティオキア大学を卒業し、シカゴ大学の大学院に進みました。植物についての知識と農業経験があったので、シャルは公務員試験に合格し、アメリカ国立植物標本館に植物学助手として採用されました。彼はまたアメリカ植物産業局でも植物学の専門家として働いていて、チェサピーク湾とカリタック・サウンドの動植物の研究を行いました。この頃に集めたデータで、彼は博士論文を書く予定でした。しかし、シャルは植物の多様性についての統計的な解析に興味を持つようになりました。彼は実験進化研究所のチャールズ・ダベンポートに連絡をとり、1904年にそこで植物学の研究者として採用されました。シャルは未完成だった博士論文を論文として出版し、コールド・スプリング・ハーバーに移りました。
コールド・スプリング・ハーバーでシャルは多くの種類の植物を研究し、栽培していました。例えば、マツヨイグサ(ユーゴ・ド・フリースの好んだ植物)、ナズナ、トウモロコシ、そしてエンドウです。彼は植物の形質と遺伝について観察した結果を多くの論文で発表しました。1905年に、彼はトウモロコシを使った形質の定量的な遺伝の研究に集中し始めました。メンデルの例に倣って、シャルは自家受精を通して多くの純系のトウモロコシを得ました。純系の植物は成長が遅く、収量も少ないものでした。ところが、彼がその純系同士を掛け合わせた時、雑種は両親のどちらよりも、また屋外で普通に受粉しているトウモロコシよりも、収量が多くなったのです。彼は、トウモロコシの収量を上げるのに、この方法が有効かもしれないとすぐに気がつきました。1930年代から40年代には、多くの農園で雑種を育てるようになり、収量が大幅に増えました。これは、戦争のための資金調達や戦後のヨーロッパとの関係修復に有利に働きました。
1915年に、シャルはプリンストン大学の教授職に就きました。彼の強い勧めで、プリンストン大学出版は新しい学術雑誌の“Genetics[遺伝学:英文の論文誌]”の発行を始めました。シャルは10年間、その編集長を務めました。“Genetics”は今でも、最も優れた国際的な学術雑誌のひとつです。
シャルは1942年に定年退職しました。晩年、彼は妻と共に、ほとんどの時間を子どもや孫と一緒に過ごしました。
チャールズ・ダーウィンの母方の祖父は、有名陶器メーカーのウェッジウッドを創立したジョシア・ウェッジウッド(1730-1795)でした。
もし進化が、種の環境への適応なら、なぜ“悪い”形質がまだ存在するのでしょうか?