テーマ 13メンデルの法則はヒトにも当てはまります

アーチボルト・ギャロッドアーチボルト・ギャロッドはヒトの病気とメンデルの遺伝の法則を結び付けた最初の人でした。彼はまた、遺伝形質の分子的な基礎となる[代謝経路に異常があると]病気は発生する、という考えを提唱しました。

アーチボルト・エドワード・ギャロッド(1857-1936)

アーチボルト・ギャロッド

 アーチボルト・ギャロッドは医者の息子でした。父、アルフレッド・バーリング・ギャロッドはリウマチ性関節炎を診断して研究しました。父親は彼にビジネスを学ばせたかったのですが、教師たちは彼の志向を認め、科学と医学の分野に進むように勧めました。ギャロッドはオックスフォード大学で医学を修め、医師になりました。

 ギャロッドは、ヒトの病気であるアルカプトン尿症を研究しました。彼は患者の家系の情報を(尿とともに)集めました。メンデル支持者のウィリアム・ベイトソンとの議論から、ギャロッドは、アルカプトン尿症は劣性の遺伝病だと推定しました。1902年にギャロッドは“The Incidence of Alkaptonuria: a Study in Chemical Individuality[アルカプトン尿症の発症:個体を化学的に研究する]”という本を出版しました。これはヒトにおいて劣性遺伝の例を公に示した最初の報告です。

 ギャロッドはまた、病気は“代謝の先天的な異常”であるという考えを提唱した最初の人でした。彼は、病気は、身体で起こっている化学反応の経路がなくなるか、または誤ったステップに進んだために起こると考えていました。1923年に、アルカプトン尿症、シスチン尿症、ペントース尿症そして色素欠乏症についての彼の研究が、“Inborn Errors of Metabolism[先天性代謝異常]”という本にまとめられました。ギャロッドは遺伝子が生化学的な働きを決めると考えました。これは遺伝の分子的な基礎という、次の時代の発見の元となる考えです。

 ギャロッドは医師というよりも科学者でした。彼の入院患者への態度は、彼らの尿のサンプルとしての興味でしかないと言われていました。ギャロッドは強い義務感を持っていて、第一次世界大戦中のマルタで大佐として勤めました。1918年に彼は叙勲されました。彼は2人の息子を戦争で亡くし、3番目の(彼の最後の)息子を戦後のインフルエンザ流行で亡くしました。それはギャロッドの後半生を悲しくする出来事でした。

factoid Did you know ?

ウィリアム・ベイトソンは、ギャロッドにメンデルの研究を紹介した人です。また、恐らく、アルカプトン尿症の研究についてのギャロッドの考えに影響を受けたと思われます。

Hmmm...

トーマス・ハント・モーガンと彼のグループは、遺伝子連鎖を調べるためにショウジョウバエを“作る”ことができました。こんなことはヒトではできません。ヒトで遺伝子の連鎖を決めるために、科学者ができることは何でしょうか?