テーマ 5遺伝にはルールがあります

レジナルド・パネット ウィリアム・ベイトソン レジナルド・パネットウィリアム・ベイトソンは、最初の英国の遺伝学者に数えられました。パネットは遺伝子の組み合わせの数や種類を示すために“パネット・スクエア”を考案しました。また、ハーディー・ワインバーグの法則を形作る役割を担いました。パネットとベイトソンは、“カップリング”もしくは遺伝子連鎖を共同で発見しました。ウィリアム・ベイトソンは、メンデルの法則に、英国の科学者の注意を向けさせました。

レジナルド・クランドール・パネット(1875-1967)


レジナルド・パネット

 レジナルド・パネットは、イギリスに生まれました。少年の頃、彼は虫垂炎を患いました。回復する間、彼は“Naturalist's Library[博物学者の図書館]”という、シリーズの本を読みました。彼の父親は、洗練された製本が気に入って、その本を買いましたが、パネットは、そのテーマに魅せられました。パネットは、ケンブリッジ大学に医学生として入ったのですが、1898年に動物学の学位を得て、卒業しました。その後、パネットは、研究者としてケンブリッジにとどまりました。彼は、紐形(ひもがた)動物の形態学を研究しました。パネットに因んで命名された、2種の海洋性の蠕虫[ぜんちゅう]Cerbratulus punnettiPunnettia splendia がいます。

 パネットは、ケンブリッジで実験のプロセスに興味を持つようになり、植物や動物を使って、メンデルの実験を始めていたウィリアム・ベイトソンに手紙を送りました。これが、ケンブリッジの“遺伝学”の確立を促した共同科学研究の始まりでした。ベイトソンとパネットは、スイートピーにおける遺伝的連鎖の最初の報告を発表しました。そしてパネットは、遺伝子の組み合わせの数と種類を図示するための“パネット・スクエア”を開発しました。

 パネットは、メンデリズムと統計を結び付ける役割をも担いました。1908年にパネットが、なぜ劣性の特徴がずっと存在し続けるのかについて、講義で説明した時、「茶色の眼が優性なのなら、なぜイギリス中全ての人の眼が茶色にならないのか?」という質問を受けました。パネットは、この質問に満足に答えられませんでした。それで彼は、今度は友人の数学者、G.H. ハーディーに尋ねました。その会話から、集団がどのように遺伝形質に影響を与えるのかを計算する、ハーディー・ワインバーグの法則が生み出されたのです。

 1912年、ウィリアム・ベイトソンがケンブリッジに戻らないと決心した時、パネットは、大学の最初のアーサー・バルフォア遺伝学教授職に就きました。彼は、スイートピー、トウモロコシ、家禽の遺伝学を研究し、多くの品種を開発しました。彼は、ニワトリのヒナの性別を決める方法として、遺伝的連鎖さえも利用しました。パネットは、1940年に定年を迎えた後も、実験を続けていました。

 パネットは、物静かで寛容で文化的な人でした。野球を含めて、全てのスポーツに優れていました。80歳になってもなお、彼は、ロンドンのサヴィルクラブ[社交クラブ]の活動的なメンバーのひとりで、スヌーカー[ビリヤードの一種]に興じました。彼は92歳で、イギリス、サマセットの自宅で亡くなりました。

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ベイトソンの家族の人生は、きわめて悲惨でした。彼の息子のひとりは、第一次世界大戦が終わる直前に亡くなり、別のひとりは1922年に自殺しました。

Hmmm...

科学者にとって一緒に研究し、お互いの結果を知ることは、どのくらい重要なのでしょうか?