テーマ 33遺伝子はオン/オフすることができます
ジャック・モノーとフランソワ・ジャコブは、世界で初めて、遺伝子がどのようにオン・オフの切り替えがなされているのかを発見した研究者です。
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- ジャック・ルシアン・モノー(1910-1976)
フランソワ・ジャコブ(1920-2013)
フランソワ・ジャコブは、恵まれていないと感じながらパリで育ちました。彼は、兄弟が欲しいと望んでいましたが、不当にも両親は、兄弟を与えてはくれませんでした。彼は、自身で兄弟を手に入れようと決意しましたが、お店で売っていないことも知っていました。
キスをすると、赤ちゃんができると聞いてからというもの、彼は、キスしているカップルを注意深く観察しました。彼は、母親が父親の体の一部を噛みちぎるステップが必ずあるはずだと、確信していましたが、想像していたような流血沙汰を目撃したことがなかったため、諦めることにしました(後にジャコブは、通常の方法で妻リサとの間に4人の子供をもうけました。)。
十代の頃を振り返り、ジャコブは、自分自身を”女の子に奥手であった”と、表現しています。もっとも、男の子とも折り合いはついておらず、ユダヤ人としての経歴を理由に、右翼のいじめっ子と日常的に喧嘩をしていました。勝てることなど、めったにありませんでしたが、彼は決して屈しませんでした。ジャコブは、学業に秀でていましたが、科目の区分化を不快に感じていました。
ジャコブには、外科手術が魔法のように感じられたため、学校を卒業後、ジャコブは、医療分野に興味を持ちました。人体の構造を垣間見ることや静かな手術室の神聖な様子が、彼を釘づけにしました。1940年、ドイツ軍の侵攻でイングランドへ疎開するまで、ジャコブは、医療学校に在籍していました。
イングランドで、ジャコブは、ド・ゴール将軍のフランス解放軍に加盟しました。彼は、一族がそうであったように砲兵隊に志願しましたが、医療隊に配属されました。ジャコブは、北アフリカに配置され、1944年のノルマンディー上陸作戦にも参加しました。
侵攻作戦の最中、彼の半身を貫いた榴散弾により、外科医になる夢を打ち砕かれました。退院した彼は、このような状況の中にも関わらず、医療学校を修了しました。学校を修了するために、彼は、手早くかつ容易に行える研究課題を探しました。彼は、新規抗生物質、チロトリシンの性質を研究していました。後に彼は、自身の当時の研究技術を“チャーリー・チャップリンが研究室に行くようなものだ”と表現しています。
不器用かつ高齢にも関わらず、ジャコブは、遺伝学研究の世界に引き寄せられていきました。ジャコブは、アンドレ・ルヴォフとその同僚ジャック・モノーに共同研究を何度も打診しましたが、断られ続けていました。これで最後にしようと思い、ジャコブが打診しに行った際、機嫌が良かったルヴォフは、ついに“プロファージの誘導”の研究を始めることをジャコブに提案しました。ジャコブは、この研究課題の意味するところが全く分かりませんでしたが、引き受けることにしました。
ジャコブは、乳糖誘導に関する最初のセミナーを聴講し、呆然とするのではなく、魅了されていました。科学者たちは、口々に冗談を言ったり、互いに難解な質問をぶつけ合ったりしていました。彼は、自叙伝の中で、「この分野は、人々がよく想像するような、客観的、学術的で堅苦しい、少し残念で退屈な世界ではない」と振り返っています。
1954年に博士号を取得した後も、ジャコブは、ルヴォフの研究室に在籍し、ファージの研究に取り組んでいました。ジャック・モノーは、階下で細菌の研究をしていました。ジャコブが、二人が実は同一のもの(抑制因子)を研究しているということに気付くと、ジャコブとモノーは、β-ガラクトシダーゼ合成をオン/オフにするスイッチを解明した、ノーベル賞受賞の共同研究を開始しました。
ジャコブとモノーのlacオペロンの発見は、DNAの制御部位の概念だけでなく、mRNAの概念をももたらしました。酵素反応産物が迅速に生産されることを説明するためには、DNAとタンパク質を結ぶ中間分子を仮定するしかありませんでした。この仮定を立証するための、カリフォルニアへの短期滞在の間、ジャコブは、シドニー・ブレナーと共同研究を行いました。
ジャコブとモノーのモデルは、抑制因子の存在のもとに成り立っていましたが、彼らは、このタンパク質を単離した訳ではありません。
抑制因子を見つけることは、なぜそんなに困難なのでしょうか?