テーマ 33遺伝子はオン/オフすることができます
ジャック・モノーとフランソワ・ジャコブは、世界で初めて、遺伝子がどのようにオン・オフの切り替えがなされているのかを発見した研究者です。
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- フランソワ・ジャコブ(1920-2013)
ジャック・ルシアン・モノー(1910-1976)
ジャック・ルシアン・モノーは、1910年2月9日、パリで生まれ、日当たりが良く、カンヌ映画祭で有名なカンヌで育ちました。モノーが、注目されることを渇望する俳優の心を持っていると表現されるのは、これが理由かもしれません。
モノーの父ルシアンは肖像画家であり、母シャーロット・トッドは、ウィスコンシン州 ミルウォーキー出身でした。幼少時、モノーは、岩登りをしたり、ヨットを漕いだり、化石を探したり、猫を解剖して遊ぶ一方、ギリシャ語やチェロを学んでいました。16歳の時には、生物が、どのように物理法則に則って活動しているのかを説明するため、生物学者になることを決めていました。
1928年、ソルボンヌ大学で自然科学を学ぶため、モノーは、パリに戻りました。彼は、生命とは何かを説明するための鍵は、遺伝学にあると確信しました。1931年に学位を取得し、博士号の取得を目指し始めた頃、ボリス・エフルシが、彼を遺伝学研究の中心地、カリフォルニア工科大学に連れて行きました。”The Eighth Day of Creation[創造の八日目 :: 邦題は、分子生物学の夜明け 上・下 ―生命の秘密に挑んだ人たち- 東京化学同人]には、エフルシが「私が遺伝学を学ばせるため、モノーをカリフォルニアに連れて行きました。モノーが、私の人生を惨めなものにしました」と不満を言ったと記されています。
モノーは、カリフォルニアで無駄な時間を過ごしたと打ち明けていますが、実際のところ、彼の音楽の才能は、地元住民に強い印象を与えていました。彼は、アメリカの富豪たちのためにコンサートを開き、その富豪たちは、彼を地元のオーケストラに雇おうとしました。
最終的にモノーは、音楽の道を拒み、学位を修めるためにパリに戻りました。1938年に彼は、考古学者のオデット・ブリュールと結婚し、1939年に双子の男の子を授かりました。1940年、博士号を取得し、フランスのレジスタンス[対ナチズムの抵抗運動]に加盟しました。
戦時中に、モノーは、レジスタンスが国内で編成した軍隊の参謀長に昇格しました。連合軍の上陸に先立ち、彼は、武器のパラシュート降下、鉄道爆破、通信傍受の手引きをしました。彼は、化学物質のように扱うことができる、小さな生物である細菌の研究も続けていました。
戦時中にモノーが行った細菌の研究は、最終的に有名なPaJaMo実験(アーサー・パーディー、フランソワ・ジャコブ、モノーらによる、細菌がβ-ガラクトシダーゼの発現をオフにし続ける、抑制因子を作っていることを明らかにした研究)へと繋がっていきます。
lacオペロンのシステムが解明された頃には、モノーの好奇心は、アロステリック効果へと移っていました。モノーは、エフェクター(何らかの効果を与える)分子が結合することで、酵素活性部位の形状が変化するという概念を、生命の第二の秘密と呼んでいました。
研究歴の後期には、モノーは、一般大衆向けに、分子生物学に関する発見をまとめた著書“Chance and Necessity[偶然と必然 : 邦訳はみすず書房より、1972年]”を著し、パスツール研究所に赴任しました。1976年5月31日、モノーは白血病でこの世を去りました。彼の最期の言葉は、"Je cherche a comprendre"(私は、理解を試みている途中です。)です。
ジャコブとモノーのモデルは、抑制因子の存在のもとに成り立っていましたが、彼らは、このタンパク質を単離した訳ではありません。
抑制因子を見つけることは、なぜそんなに困難なのでしょうか?