テーマ 10遺伝子は染色体上にあります

トーマス・ハント・モーガントーマス・ハント・モーガンは初期の真の遺伝学者のひとりでした。彼と彼の“ハエ仲間”は遺伝における染色体と遺伝子の役割について理解するのに、素晴らしい貢献をしました。

トーマス・ハント・モーガン(1866-1945)

トーマス・ハント・モーガン

 トーマス・ハント・モーガンはケンタッキー州レキシントンで生まれました。少年の頃、モーガンは田舎を探検し、野生生物や化石のサンプルを集めるのが好きでした。ケンタッキー州立大学での自然科学の課程はモーガンにとって負荷の大きいものでした。1886年に州立大学卒業後、彼は当時、比較的新しい大学であったジョンズ・ホプキンス大学に移り、大学院で動物学の研究をしました。彼の博士論文は、ウミグモの発生に関する、綿密で評判の高い研究でした。1891年から1904年まで、モーガンはブリンマー・カレッジの教授として、生物学と他の自然科学を教えていました。彼はそこでも自分の研究を続けていて、発生学や動物学の論文や本を出版していました。

 1904年に、彼は親友のエドマンド・ウィルソンに、コロンビア大学に実験動物学の教授として加わるよう誘われました。モーガンはこれを受け入れ、彼の人生の「ショウジョウバエの章」が始まったのです。

 モーガンは種の多様性に興味を持ちだしました。そして1911年にコロンビア大学に、ひとつの種が時を経て、どのように変化するのか究明するための“ハエ部屋”を設置しました。続く17年間、モーガンと学生たちは、16 x 17 フィート[約5 mx5 m]のその部屋で、多くの人に、狭くてほこりっぽく、悪臭のする、ゴキブリだらけの部屋と言われながら、キイロショウジョウバエ(Drosophila melanogaster)を使って、革新的な遺伝学の研究を行いました。最初モーガンは、染色体の動きで遺伝を説明できるという考えに反対でしたが、後にこの考え方を率先して支持するようになりました。モーガンと彼の学生たち(アルフレッド・スターテヴァントカルヴィン・ブリッジスヘルマン・ミュラーなど)は考えを発展させ、遺伝の染色体理論、遺伝的連鎖、染色体の交差、そして(染色体の)不分離を証明しました。

 モーガンは、彼を知る多くの人からエネルギッシュで、ユーモアと悪ふざけのセンスのある、親しみやすい人と評されていました。研究室ではモーガンはアイデアマンであり、立案者であり、“ボス”でした。彼はよく企画の細かいところを彼の“息子たち”、つまり学生たちに任せていました。彼は、例えば両眼顕微鏡のような新しい装置やカルヴィン・ブリッジスが紹介した新しい方法に対して、なかなか取り入れようとはしないものの、研究室の仕事を進んで分担していました。モーガンのデータは、往々にして古い封筒の裏とか紙くずに走り書きされたものでしたが、それらは押しつぶされたハエたちで飾られていました。モーガンは“要らない”ハエを、ブリッジスが備え付けたエーテル入りのごみ箱に捨てずに押しつぶしていたのでした。

 1928年に、モーガンはパサディナに移り、カリフォルニア工科大学の生物学部を組織しました。彼は少しずつショウジョウバエの研究に関わらなくなり、以前からの興味の対象であった発生学に戻っていきました。

 1933年に、トーマス・ハント・モーガンは、遺伝の染色体理論を確立したことで、ノーベル生理学・医学賞を受賞しました。彼は賞金を彼の子どもたちと長年の共同研究者であったアルフレッド・スターテヴァントとカルヴィン・ブリッジスとで分けました。モーガンはカリフォルニア工科大学の職を1941年に公的には定年退職しましたが、実際には1945年に亡くなるまで研究室で仕事を続けました。

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学部生の頃、トーマス・ハント・モーガンは優秀だったにもかかわらず、フランス語の単位を落としかけました。というのも、フランス語の教師は(アメリカ南北戦争時の)北軍兵士で、南北戦争の時に“モーガン突撃隊(モーガンの大伯父の南軍将軍、ジョン・ハント・モーガンによって組織された部隊)”に捕えられたという過去があったからです。

Hmmm...

驚くべきことに、初期に発見されたショウジョウバエのほとんどの変異はX連鎖性の形質でした。