テーマ 15細胞核にある重要な分子はDNAとタンパク質です

フリードリッヒ・ミーシャ フィーバス・レヴィーン 1869年にフリードリッヒ・ミーシャは、細胞核からタンパク質と結合したDNAである“ヌクレイン”を単離しました。彼はDNAを確かな分子として同定した最初の人です。フィーバス・レヴィーンは1900年代初頭の有機化学者でした。レヴィーンは、DNAについての間違った仮説、4ヌクレオチド仮説で知られています。

フィーバス・レヴィーン(1869-1940)


Phoebus Levene

 フィーバス・アーロン・セオドール・レヴィーンはロシアのサゴールで生まれました。彼は、サンクト・ペテルブルグで育ち、帝国軍医学アカデミーで学びました。学生として、彼は有機化学の教授の研究室で働き、そこで生化学への興味を育みました。

1891年、ロシアでの反ユダヤ主義が拡大したため、レヴィーンは家族と共にアメリカに渡りました。彼らは象徴的な日の7月4日に到着しました[訳注:7月4日はアメリカ合衆国の独立記念日]。レヴィーンは医学博士の学位を取るために、ただちにロシアに戻りましたが、1892年には彼はニューヨークにいて、ロウワー・イーストサイドで薬学を学んでいました。

 レヴィーンは研究を諦めませんでした。彼はコロンビア大学に聴講生として入学し、時間をやりくりして、生理学部門で医学実習と研究の両方を行いました。1894年までに、彼は糖の化学構造について論文を発表し始めました。2年後、レヴィーンは、最初の職であるニューヨーク州立病院の病理研究所の研究員になりました。不幸なことに、この頃レヴィーンは結核に罹り、治療のために休みを取らざるをえなくなりました。

 レヴィーンは1896年から1905年まで、健康を取り戻すのに時間をかけ、その当時に核酸とタンパク質の専門家であったアルブレヒト・コッセルやエミール・フィッシャーを含め、多くの有名な化学者と仕事をしました。1905年に、レヴィーンは新しく創設されたロックフェラー医学研究所の生化学研究室の室長として雇用されました。レヴィーンは、ロックフェラーで核酸の仕事のほとんどを行い、死ぬまでそこで研究しました。

 レヴィーンは、文化人でもあり、美術の愛好家であり収集家でもありました。彼の家の壁は、写真や絵画、あるいは本であふれた棚がずらりと並んでいました。レヴィーンはたいへんな博識で、ロシア語、英語、フランス語、ドイツ語に堪能でした。彼はスペイン語とイタリア語も多少話せました。彼には経験、知識、寛容さがあり、研究者仲間や友達に好かれていました。彼はまた、情熱的で支援を惜しまない偉大な教師とも評されました。

 ほとんどの場合、レヴィーンは彼の誤った4ヌクレオチド仮説で覚えられていますが、彼は多くの生化学物の構造について700以上の原著論文と記事を発表しました。レヴィーンはDNAの真の重要性が明らかになる前の1940年に亡くなりました。

factoid Did you know ?

フィーバス・レヴィーンはイワン・パブロフを知っていました。あの、ベルを鳴らすと唾液を出すようにイヌをしつけることで、条件反射のアイデアを発展させた生理学者のパブロフです。彼がニューヨークにパブロフを訪ねた時、パブロフは強盗の被害に遭っていました。パブロフにお金と新しい査証を渡して、家を買うのを助けたのはレヴィーンです。

Hmmm...

レヴィーンの4ヌクレオチド仮説は間違いでした。DNA の構造を説明するのに、他にどんな仮説を思いつきますか?