テーマ 15細胞核にある重要な分子はDNAとタンパク質です
1869年にフリードリッヒ・ミーシャは、細胞核からタンパク質と結合したDNAである“ヌクレイン”を単離しました。彼はDNAを確かな分子として同定した最初の人です。フィーバス・レヴィーンは1900年代初頭の有機化学者でした。レヴィーンは、DNAについての間違った仮説、4ヌクレオチド仮説で知られています。
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- フィーバス・レヴィーン(1869-1940)
フリードリッヒ・ミーシャ(1844-1895)
フリードリッヒ(フリッツ)・ミーシャはスイスのバーゼルに生まれました。ミーシャの家族はバーゼルの知的エリートの一員で、周りから尊敬されていました。フリードリッヒの父親は医師で病理解剖学を教えていました。フリードリッヒの叔父のウィルヘルム・ヒスは有名な発生学者でした。
ミーシャは、内気で聴力に障害がありましたが、優秀な学生でした。ミーシャは最初、神父になりたかったのですが、父親が反対し、医学部に進みました。1868年に卒業した時、ミーシャは自分の聴力の問題から、患者とのやり取りが必要な臨床医を避けました。彼は医学研究を、自分の進路の基盤にすると決めました。彼はチュービンゲン大学に進み、フェリックス・ホッペ-ザイラーのもとで新しく創設された、自然科学部門で研究しました。
ホッペ-ザイラーの研究室は組織化学を専門としたドイツで初めての研究室でした。その頃、科学者たちはまだ“細胞”の概念について議論していましたが、ホッペ-ザイラーと彼の研究室では細胞を構成している分子の単離を行っていました。ミーシャはリンパ球細胞、つまり白血球細胞の組成を調べる仕事を与えられました。
リンパ腺から細胞を抽出するのは難しいことでした。しかし感染症から出た膿にはリンパ球細胞が大量にあることが分かりました。ミーシャは近くの病院から包帯を集め、膿を洗い落としました。彼は実験をして、細胞核から新しい分子、ヌクレインを単離しました。彼は、ヌクレインは水素、酸素、窒素そしてリンからなり、リンと窒素の間には決まった比率があることを突きとめました。彼は他の細胞からもヌクレインを単離することに成功し、後にサケの精子(膿ではなく)を材料として使いました。
ミーシャは1869年には、この仕事をほとんど終えていたのですが、彼の論文は1871年まで発表されませんでした。ヌクレインは他に類のない分子だったので、ホッペ‐ザイラーは信じられず、発表する前にミーシャの結果を確認したがりました。
ミーシャは彼の残りの研究生活をヌクレインの研究に充てました。彼は放卵する時に起こるサケの代謝の変化も調べました。1872年に、ミーシャはバーゼル大学の生理学の教授に迎えられました。この職は、以前に彼の父親と叔父が就いていたものです。この職に就くことにより、ミーシャはより多くの研究資金や実験機器を得ましたが、教育の仕事もしなければならなくなりました。ミーシャは教育に多くの時間と努力も費やしましたが、優れた教師にはなれませんでした。彼は内気で、研究に没頭しがちだったため、学生たちとうまくやっていけなかったのです。彼は完全主義者で仕事中毒でした。ヌクレインの単離をするために、しばしば非常に長い時間、働きました。
核酸の役割が明らかになる数年前のことだったでしょう。ミーシャは、自身ではタンパク質が遺伝分子だと考えていました。けれども、ミーシャは、その後に続く、分子生物の発見の土台を築きました。ミーシャは1895年に結核で亡くなりました。
フィーバス・レヴィーンはイワン・パブロフを知っていました。あの、ベルを鳴らすと唾液を出すようにイヌをしつけることで、条件反射のアイデアを発展させた生理学者のパブロフです。彼がニューヨークにパブロフを訪ねた時、パブロフは強盗の被害に遭っていました。パブロフにお金と新しい査証を渡して、家を買うのを助けたのはレヴィーンです。
レヴィーンの4ヌクレオチド仮説は間違いでした。DNA の構造を説明するのに、他にどんな仮説を思いつきますか?