テーマ 16ひとつの遺伝子はひとつのタンパク質を作ります
ジョージ・ビードルは、アカパンカビの分野の研究を始める前にトウモロコシとショウジョウバエの遺伝学研究で成功を収めていました。ジョージ・ビードルとエドワード・テータムは、アカパンカビを使って、“ひとつの遺伝子がひとつのタンパク質を作る”ことを証明しました。テータムはまた、細菌の遺伝学の創始者でもありました。
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- エドワード・ローリー・テータム(1909-1975)
ジョージ・ウェルズ・ビードル(1903-1989)
ジョージ・ビードル、友人からは「ベーツ」と呼ばれていました、は、ネブラスカ州のワフーで生まれました。父は農夫で、ワフーの郊外に40エーカーの農場を持っていました。ビードルの母は彼が4歳の時に亡くなり、ビードルと彼の兄弟姉妹は父と家政婦によって育てられました。
ビードルの父は、彼が農夫になるだろうと思っていました。しかし、ビードルの高校の科学の先生は彼に大学に行くよう勧めました。1926年、ビードルはネブラスカ大学農学部を卒業して科学の学位を取り、更に1年残って修士課程を修めました。
修士課程で牧草の環境学に取り組む間に、ビードルは遺伝学に興味を持つようになりました。彼はコーネル大学の大学院を志願し、1927年に、トウモロコシの遺伝学に取り組むR.A. エマーソンのグループに加わりました。そこには、後にビードルがアパカンカビの染色体数を計算するのを助けたバーバラ・マクリントックがいました。
1931年に学位を取得後、ビードルはT.H. モーガンが新しく作ったカリフォルニア工科大学の生物部門で、更にはパリのボリス・エフルッシのところで博士研究員の仕事を行いました。ビードルは、当時“最先端”であったショウジョウバエの遺伝学を手がけました。彼は交叉に関する論文を出し、成虫原基の移植技術を発展させました。ビードルはまた、1937年に、エフルッシと共にショウジョウバエの目の色を決定する遺伝子の相互作用についての論文を出しました。“一遺伝子一酵素”仮説のヒントはこの論文にありました。ビードルとエフルッシは、色素形成に必要な物質を作る遺伝子と、この過程を破壊する、遺伝子内の変異に言及しました。
ビードルは1937年に、スタンフォード大学でエドワード・テータムとチームを作り、目の色に関する“物質”の単離同定に取り組みました。彼らは他のグループに負けましたが、このことでビードルは、遺伝子の働きについての疑問を研究するには、より単純な遺伝系が必要だと確信しました。彼はアカパンカビにそれを見いだし、1940年にビードルは、彼のショウジョウバエの研究室を、アカパンカビの生育と培養ができるようにしました。
アカパンカビを変異させて栄養学的欠陥を調べるという計画は理にかなっていましたが、成功の保証はなかったのです。ビードルとテータムは、着想に見切りをつける前に5千株だけ調べることであらかじめ合意していました。彼らは1千以上の放射線を当てた株を、それらを実際に調べる前に収集して保存しました。成功は299番目の株と共に訪れました。ビードルとテータムは、1941年に結果を公表し、1958年のノーベル生理学・医学賞を分けあいました。
ビードルは評判が良く、ボスとしてたいへん尊敬されました。熱狂的で、実践的で面白く、どんな仕事も引き受けました。彼は指導すると共に実験も行いました。多くの小さな修繕を行ったり、必要な小道具を作ったりして研究室の面倒をみました。
ビードルは1945年、T.H. モーガンが亡くなったのに代わって、カルフォル二ア工科大学の生物部門の教授を引き継ぎました。ビードルは、1961年から1968年までシカゴ大学の学長を勤め、大学のイメージを補強・強化しました。1969年に退官後、ビードルは再び研究に従事し、トウモロコシの起源を決めようとしました。1981年、ビードルはアルツハイマー病になりました。1989年に彼は亡くなり、優れた経歴の終焉を迎えました。
ジョージ・ビードルは、アカパンカビ論文の3年後に、アーチボルト・ギャロッドがアルカプトン尿症について行った1902年の仕事に気づきました。ビードルは、類似点に気づき、ギャロッドこそ“一遺伝子一酵素”理論に取り組んだ最初の人物であると認めました。
アーチボルト・ギャロッドは、1902年に、疾患は“代謝の先天的異常”であると提唱しました。なぜギャロッドの理論は1902年には知られることなく、受け入れられることもなかったのでしょうか?