テーマ 16ひとつの遺伝子はひとつのタンパク質を作ります
ジョージ・ビードルは、アカパンカビの分野の研究を始める前にトウモロコシとショウジョウバエの遺伝学研究で成功を収めていました。ジョージ・ビードルとエドワード・テータムは、アカパンカビを使って、“ひとつの遺伝子がひとつのタンパク質を作る”ことを証明しました。テータムはまた、細菌の遺伝学の創始者でもありました。
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- ジョージ・ウェルズ・ビードル(1903-1989)
エドワード・ローリー・テータム(1909-1975)
エドワード・テータムはコロラド州ボルダーに生まれました。テータムが成長する間に、彼の家は何度も引っ越しました。彼の父は北部中央地域の様々な大学の教職に就いていました。父がPh.D[博士号]とM.D.[医学博士]を持っていたので、テータムは科学志向の家庭の中で育ちました。
1931年にテータムはウィスコンシン大学で修士号を取り、そのまま大学院で様々な細菌株の栄養要求性の研究に取り組みました。この研究は実用的な面もありました。テータムの取り組んでいた細菌株は牛乳から見つかったものです。細菌の生育に何を必要とするかを知ることで、その生育を制御する戦略を開発できるのです。
学位を取得後、テータムはオランダのユトレヒト大学で同様の研究をしながら1年を過ごしました。1937年に、ウィスコンシンの教授が彼に、ジョージ・ビードルが、スタンフォード大学の新しい研究室の研究助手を探している、という求人を回しました。この仕事は研究の機会としてすばらしいものでしたが、テータムの指導教授は彼に、乳製品工場に行ってバターの研究をするよう勧めました。こちらの方の給料が良かったからです。
テータムはお金より知的挑戦を選びました。彼はビードルの研究室で、最初の2-3年は、ビードルの以前の仕事の続きである、ショウジョウバエの目の色を決める“物質”の単離同定に費やしました。彼らは他のグループに敗れましたが、このことによって、アカパンカビの実験の準備が始まりました。アカパンカビへの転換は、テータムが自発的に行った生物学講座のひとつの授業の後でした。ビードルはその講義を見学していて、アカパンカビの系に気づきました。彼は、遺伝子の働きを研究するのに理想的な系だと思いました。
新たなアカパンカビ計画に成功の保証はありませんでした。そこで、ビードルとテータムは取り決めをして、アカパンカビの培養株5千個を調べて、もし5千個に1個も栄養性変異株が見つからなかったら計画を諦めることにしました。実験は成功し、エドワード・テータムは1958年のノーベル生理学・医学賞を分け合いました。
テータムは1945年、ワシントン大学セント・ルイス校での短期の仕事の後、イェール大学に移りました。彼は、細菌の変異株を見つけるのにアカパンカビの戦略を使いました。彼は、スタンフォード・コレクションの大腸菌K12株を用いました。当時、K12株は大腸菌株では一般的でなかったのですが、これは幸運な選択でした。K12株の持つ性質によって、テータムと彼の学生のジョシュア・レーダーバーグは細菌の組換えを示すことができました。レーダーバーグとは、1958年のノーベル生理学・医学賞を分け合いました。
1948年、テータムはスタンフォード大学に戻り、1956年には新設の生化学科長に任命されました。1957年にテータムはロックフェラー研究所に移って教授となり、亡くなるまでそこにとどまりました。
テータムは協力的なボスでした。研究室の自分自身の目標もありましたが、学生の研究の興味について積極的に鼓舞するのを忘れなかったのです。彼は“ Genetics(遺伝学)”、“Science,”、“Journal of Biological Chemistry(生化学雑誌),”などの科学雑誌の編集委員会に所属しました。テータムはまた、多くの委員会の科学顧問を務め、学生と博士研究員の養成に関する国際方針設定を助けました。テータムは、生涯にわたる喫煙からくる肺気腫によって悪化した心疾患により、1975年に亡くなりました。
ジョージ・ビードルは、アカパンカビ論文の3年後に、アーチボルト・ギャロッドがアルカプトン尿症について行った1902年の仕事に気づきました。ビードルは、類似点に気づき、ギャロッドこそ“一遺伝子一酵素”理論に取り組んだ最初の人物であると認めました。
アーチボルト・ギャロッドは、1902年に、疾患は“代謝の先天的異常”であると提唱しました。なぜギャロッドの理論は1902年には知られることなく、受け入れられることもなかったのでしょうか?