テーマ 9特別な染色体が性を決定します

ネッティ・マリア・スティーブンス エドマンド・ビーチャー・ウィルソン ネッティ・マリア・スティーブンスエドマンド・ビーチャー・ウィルソンの2人は、染色体が性を決定するというアイデアにそれぞれ独立に辿り着きました。彼らの研究で遺伝における染色体の重要性が認められ、トーマス・ハント・モーガンがショウジョウバエを使った初期の遺伝学の結果を説明する助けとなりました。

エドマンド・ビーチャー・ウィルソン(1856-1939)


エドマンド・ビーチャー・ウィルソン

 エドマンド・ビーチャー・ウィルソンはイリノイ州のジェノバに生まれました。彼は判事の息子でしたが、法律ではなくイェール大学で生物学の研究を始めました(1878)。彼はジョンズ・ホプキンス大学の大学院で研究しました(1878-81)。彼は発生学の教育を受けました。遺伝学はそのころ科学として存在していなかったのです。1885年から1891年まで、ウィルソンはブリンマー・カレッジの教授で、生物学を教えていました。彼もまたヨーロッパに渡り、彼自身の研究を続けました。細胞学、染色体の研究は重要性を増しつつありました。ウィルソンはすぐに専門家となり、細胞の発生における遺伝の役割についての研究を始めました。

 1891年に、ウィルソンはブリンマー・カレッジを去り、コロンビア大学の動物学の教授になりました。最終的に彼は動物学部の部長になりました。ウィルソンはブリンマーとの関係を持ち続けました。彼はそこで教えていたトーマス・ハント・モーガンのよい友達でしたし、ウィルソンはブリンマーの学生たちを支援し、助言し続けました。

 1904年に、ウィルソンはトーマス・ハント・モーガンをコロンビアのスタッフとして招へいしました。それが、細胞学と遺伝学の結びつきに必要な科学的な雰囲気を作り出すのに役立ちました。1905年に、ウィルソンは昆虫の染色体の研究に基づいて染色体の研究という論文を発表しました。論文の中で、ウィルソンは染色体による性決定の理論を提示しました。同じ年に、ウィルソンは、そのテーマを扱ったネッティ・スティーブンスの論文の審査を頼まれました。厳密に言えば、スティーブンスの論文を読んだ時にはウィルソンの論文は、すでに印刷に回されていました(彼は熱心にその出版を推薦しました)。とはいえ、ウィルソンとスティーブンスの両人とも、染色体による性決定理論の功績で認められています。彼らは独立にその理論に辿りついたからです。ウィルソンとスティーブンスは、最終的に、それぞれの論文で互いを参照し合い、彼らの結論を裏づけました。

 ウィルソンは続けて染色体の研究の論文を次々に発表しました。彼はまた細胞構造と一般生物学についての本も出版しました。

 ウィルソンは、プロのカリバーチェロの演奏家でした。彼はセーリングを楽しみ、よくトーマス・ハント・モーガンと彼の家族をボートに招待したものでした。ウィルソンの学生のひとりだったヘルマン・ミュラーによると、彼は親切で几帳面で注意深い人物で、正しく意思疎通できた時にだけ、アイデアというものは有効だということを知っていた人でした。ウィルソンの講義はよくまとめられ、考え抜かれていて、分かりやすかったと評されました。ウィルソンは1930年代の始めにコロンビアを退職しました。

factoid Did you know ?

(精子が含まれている)精液の受精能力を証明するために、1784年に科学者は交尾をする前のオスのカエルにパンツを履かせました。当然ながら、卵は発育することはありませんでした。

Hmmm...

なぜ減数分裂という還元システムを持っているのでしょうか? 生殖細胞を作るために1組の染色体を壊すのではダメなのしょうか?