テーマ 17遺伝子はDNAからできています
1944年、オズワルド・アベリーと彼の同僚の、コリン・マックロードとマクリン・マッカーティは、DNAの形質転換能力について記念すべき論文を発表しました。
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- オズワルド・セオドア・アベリー(1877-1955)
マクリン・マッカーティ(1911-2005)
マクリン・マッカーティはインディアナ州サウス・ベンドに生まれました。父親はサウス・ベンドのステュードベーカー社[訳注:米国の車両メーカー]に勤めていて、アメリカ中のいろいろな場所に転勤しました。家族は一緒に移動し、1922年に一家がサウス・ベンドに戻るまで、マッカーティは、あちらこちらに移動しながら初等教育を受けました。両親は共に非常に博識で、また子どもたちに知識は自分自身で求めるように勧めました。
高校で、マッカーティは“微生物の狩人”という本を読みました。これをきっかけに生物学や医学の他の本を読むようになり、医学研究の道に進むと決めました。後の研究の準備段階として、マッカーティと3人の高校の友達は“化学研究愛好”クラブをつくり、自分たちの地下実験室で実験を行いました。
1929年に、マッカーティはスタンフォード大学の医学部進学課程に進み、1933年にはジョンズ・ホプキンス大学医学部に入りました。マッカーティは数年間、夏を小児科のインターンとして過ごしましたが、医学部の卒業までずっと、医学研究の実験室で働いていました。
卒業後、マッカーティは研究職を探しましたが、戦争のため、就職口はあまりありませんでした。1940年、彼はニューヨーク大学のウィリアム・ティレットの下で、月100ドルで働きはじめました。次の年、マッカーティは全米研究評議会の特別研究員の資格を得ました。彼らは、マッカーティに実験的な視野を広げるために、別の研究室で研究員の資格を使うことを勧めました。ティレットはマッカーティのためにロックフェラー研究所のオズワルド・アベリーの研究室に加えてもらえるように手配しました。ティレットは20代の頃アベリーの研究室で働いていて、マッカーティが微生物の研究を進めるのに、そこがふさわしい場所だと考えたのです。
ロックフェラー研究所で、マッカーティはアベリーと研究し、肺炎球菌の形質転換因子の精製をやり遂げました。彼らは細菌からDNAを沈殿させた最初の人です。彼らは様々な分子を分解するのに酵素を用い、DNAが形質転換因子であることを証明しました。彼らの記念すべき論文は1944年に発表されました。マッカーティは1942年に草稿を書き、ほとんどの仕事を海軍の制服を着て行いました。この仕事はロックフェラー病院が本拠地になった海軍研究ユニットの一部として行われたからです。
1946年、マッカーティはロックフェラー研究所で自身の研究室を与えられました。彼はロックフェラー研究所が発展してできた、ロックフェラー大学の名誉教授でした。
多くの科学者が分子生物学の分野でのアベリーの研究を認めていますが、オズワルド・アベリーはノーベル賞を取っていませんでした。理由はおそらくアベリーが、遺伝子はDNAでできている、と公に発言したことが一度もなかったからでしょう。
アベリーは、彼の論文の中でDNAが形質転換因子であることを示しました。このことから、形質転換はDNAに存在する遺伝子の働きによって起こると示唆されます。あなたはこれをどのように証明しますか?