テーマ 17遺伝子はDNAからできています
1944年、オズワルド・アベリーと彼の同僚の、コリン・マックロードとマクリン・マッカーティは、DNAの形質転換能力について記念すべき論文を発表しました。
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- マクリン・マッカーティ(1911-2005)
オズワルド・セオドア・アベリー(1877-1955)
オズワルド・アベリーは1877年に、[カナダ]ノバスコシア州ハリファックスで生まれました。オズワルドが10歳の時、父親がニューヨークのロウワー・イーストサイドにあるマリナー寺院の牧師になりました。アベリーの両親は非常に進取の気性に富んだ人たちでした。彼らはニューヨーク市街の最も混みあった不潔な地域の中、安い牧師の給料でよくやっていました。彼らは時おり、ジョン・D・ロックフェラーの資金的な援助を受けていました。ロックフェラーは裕福な実業家で、バプテスト派教会の熱心な支援者でした。
幼い少年だった頃、アベリーはコルネットの吹き方を覚え、日曜の午後にはその演奏で信者を教会へと足を運ばせました。彼の演奏はとても上手だったので、国立音楽学校に入る奨学金を獲得しました。1893年、アベリーはコグネート専門学校、そして後にコルゲート大学に入りました。彼は大学バンドのリーダーになり、小柄だったので“ベーブ”というニックネームをつけられていました。
アベリーは優秀な学生で、学士号を得て大学を卒業しました。彼は大学で、ほんのわずかしか科学のコースを取らなかったのですが、卒業後に、アベリーはコロンビア大学医学部に進み、医学を学びました。ちょうど世紀が変わる頃で、医学の分野は変わろうとしていました。科学者は病気の本質と原因を発見し始めていました。アベリーは患者たちにとっても良い医師だったのですが、医学研究の方がより知的に満足できることに気がつきました。
1907年、アベリーはブルックリンのホーグランドド研究所の副所長を引き受けました。ここはアメリカ初の私立の微生物研究所です。ホーグランドド研究所で、アベリーは看護実習生たちを教え、教授[プロフェッサー]をもじった“フェス”というニックネームを貰いました。
アベリーは、異なる免疫学的、化学的手法を用いて、多くの微生物株の仕事をしました。1913年、アベリーは肺炎球菌についての医学的な研究を発表しました。この研究に、ロックフェラー大学病院の院長のルーファス・コールが興味を持ちました。そこでコールはアベリーにロックフェラーでの職を提供しました。アベリーは肺炎球菌の研究をロックフェラーで行い、1948年に定年になるまで勤めました。
アベリーは、つきあいにそれほど時間をかけていませんでしたが、同僚からとても好かれていました。彼はまた、ほとんど旅行することもありませんでしたし、学会や会議にでることも稀でした。例外的に毎年夏の休暇にはメイン州のディア島に出かけました。そこでは、昔好きだったセーリングに夢中になりました。
定年後にアベリーは、兄弟家族の住まいに近い[テネシー州]ナッシュビルに移りました。研究生活を続けるような提案も受けましたが、アベリーは退職した“田舎紳士”の生活様式を養いました。彼は長時間歩き、庭仕事をし、家族と一緒に過ごしました。1954年、彼は肝臓がんと診断され、次の年、つらい闘病生活の後に亡くなりました。
多くの科学者が分子生物学の分野でのアベリーの研究を認めていますが、オズワルド・アベリーはノーベル賞を取っていませんでした。理由はおそらくアベリーが、遺伝子はDNAでできている、と公に発言したことが一度もなかったからでしょう。
アベリーは、彼の論文の中でDNAが形質転換因子であることを示しました。このことから、形質転換はDNAに存在する遺伝子の働きによって起こると示唆されます。あなたはこれをどのように証明しますか?