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リチャード・ロバーツとフィリップ・シャープは、分断された遺伝子仮説の発見により、1993年のノーベル賞を共同受賞しました。
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- リチャード・ジョン・ロバーツ(1943-)
フィリップ・アレン・シャープ(1944-)
フィリップ(フィル)・シャープは、ケンタッキー州の田舎で生まれました。彼は農園で育ち、特に生物学に興味があったわけではありませんでした。シャープは学校で科学と数学の時間を楽しんでいました。両親は彼に大学に行くように勧め、シャープは、牛を飼育しタバコを栽培して学費を稼ぎました。
シャープはユニオン・カレッジという小さな教養学部に行きました。彼は化学と数学を専攻し、大学院はイリノイ大学に進みました。彼の学位の課題はDNAの記述についてでした。それは実験分子生物学とは異なり、もっと物理化学的なものでした。
1966年にコールド・スプリング・ハーバー研究所で、遺伝暗号のシンポジウムが開かれました。シャープは、このシンボジウムの特集を読んで、分子生物学と遺伝学に興味を持つようになりました。1969年に博士研究員の職を探し始め、シャープはカリフォルニア工科大学のノーマン・ダビッドソンの研究室に応募し受理されました。この研究室ではファージと細菌のゲノムに関連する問題について研究していました。シャープは実験に電子顕微鏡のような技術をどのように使うか、また仮説を試すことを学びました。シャープは細菌のプラスミドについて実験し、学び、性や薬剤耐性を与えるプラスミドが転移因子を持つことを見つけました。
1971年、シャープはコールド・スプリング・ハーバーで別の博士研究員になりました。ジェームズ・ワトソンが彼の指導者でした。しかしながら、ジェームズ・ワトソンはまだハーバードにいたので、シャープは、ジョー・サンブロックとより親しく働きました。シャープは遺伝子発現に関心があり、SV40やアデノウイルスのような簡単なウイルスで研究をしていました。発見されたばかりの制限酵素と改良したゲル電気泳動法を使って、シャープは、アデノウイルスのゲノムをマッピングしました。それから、彼と共同研究者は、アデノウイルスのmRNAをマッピングして機能と結びつけました。
実験はコールド・スプリング・ハーバーで始められ、マサチューセッツ工科大学でも続けられました。シャープは1974年に、マサチューセッツ工科大学のがん研究センターでの職をオファーされました。シャープと共同研究者たちは、核内の長いRNAは細胞質に存在しないことに気がつきました。彼らは、これらの核の長いmRNAが短いRNAに加工されるのだろうと考えました。RNA/DNAのハイブリッド分子を使って、細胞質のmRNAは加工され、編集されていることを示しました。このことが、分断された遺伝子という仮説を生み、この仮説でシャープは1993年のノーベル生理学・医学賞を共同受賞しました。.
1978年、シャープとウォルター・ギルバートを含む研究者グループは、バイオジェン社を設立しました。これはバイテク会社の最初のひとつです。現在、この会社はボストンに本拠地を置く、非複合バイテク企業で、シャープはバイオジェンの科学担当で、取締役会のメンバーです。[バイオジェン社は2003年にIDEC Pharmaceuticals社と合併し、バイオジェン・アイデック社となっています。]
1985年、シャープは、サルバドール・ルリアが引退した後の、がん研究センターの所長になりました。1991年、彼は所長を辞し、マサチューセッツ工科大学の生物学部門長になりました。彼の部門長としての職歴は1999年に終わり、現在は研究所の教授です。
ノーベル賞に加えて、シャープはその研究で多くの賞を受賞しました。また、1995年まで、シャープは “Cell”誌の編集委員でした。そして今でも全米科学アカデミーや米国哲学協会といった、多くの科学者の組織の役員です。彼は、大統領科学技術協議会のメンバーとして、また、NIHのような政府の助成機関のいくつもの調査委員会や審議委員会のメンバーとして働いています。
リッチ・ロバーツはDNA法医学の専門家として証言した、最初のひとりです。彼はDNAのフィンガープリントデータを検証し、法廷でその有効性について証言しました。
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