テーマ 40生き物には共通の遺伝子もあります
マイク・ウィグラーのグループは、世界で初めて、ヒトのがん遺伝子をクローン化し、その性質を調べました。マイク・ビショップとハロルド・ヴァーマスは、レトロウイルスがどのようにして、通常細胞をがん細胞にするかを突き止めました。
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- マイク・ウィグラー(1947-)
- ハロルド・エリオット・ヴァーマス(1939-)
ジョン・マイケル・ビショップ(1936-)
ノーベル賞を受賞した科学者たちに対する誤解のひとつは、彼らが顕微鏡で何かをすぐに発見し、生命の神秘を解き明かすことができる天性を持って、生まれたと考えることでしょう。J・マイケル・ビショップは、これには当てはまりません。彼が一番好きなものは、音楽でした。ペンシルベニア州ヨークという片田舎の2つの小さな教会で、彼の父親は牧師をしており、そこでビショップは、歌とピアノを習いました。
ビショップが2番目に好きだったものは、歴史でした。これは、彼が通っていた二部屋学校(two-room schoolhouse)にいた、熱心な先生に触発されたものでした。彼の成績は良かったのですが、高校の時に医者と親しくなるまでは、科学に触れることはありませんでした。その医者は、患者の往診に彼を同行させ、手術を見せました。ビショップが1953年に[ペンシルベニア州]ゲティスバーグ大学に入学した時には、ビショップは、医学部を目指していました。
彼は、化学の学位で大学を卒業しましたが、医学部に行くには、他の科目が不足していました。歴史、哲学、作文は、チャンスはあったものの、単位を落としていました。しかし唯一、ビショップが強く感じていたことは、自分が何を教えたいかがはっきりしていなくても、学問的キャリアを追及すべきだ、ということでした。そこで大学アドバイザーは、彼にハーバード大学医学大学院を推薦したのでした。
交響楽や美術館にあふれたボストンは、都会暮らしが初めての青年にとっては、誘惑だらけでした。一方で医学部は、彼が期待していたような、教師養成所ではありませんでした。その代わり、学術の道は教育ではなく、研究であることがはっきり分かりました。ビショップには、研究の経験がありませんでした。彼は、神経生物学の研究室の夏期雇用を探しましたが、採用されませんでした。
マサチューセッツ総合病院にいた、二人の病理学者がビショップに手をさしのべて、研究への道を開いてくれました。3年になる頃には、動物のウイルス学に引きつけられていました。この分野が新参者にも開かれた領域だったことも、一部影響しているでしょう。彼は、他の研究室に移ります。そこで彼は、“研究の酩酊、厳しさの実践、失望の芸術”を学ぶことになります。
NIH(米国国立衛生研究所)の助手トレーニングプログラムを通じたさらなる訓練により、ビショップの研究スキルは、更に強固なものとなり、ポリオウイルスの複製に関する、初めての研究論文を発表しました。1968年にはカリフォルニア大学サンフランシスコ校[UCSF] の教職を得て、そこで彼は、レトロウイルスの複製について研究を始めました。
1970年にハロルド・ヴァーマスが、博士研究員として研究室に参加したことが、ビショップの人生を変えました。彼らは、トリ(ラウス)肉腫ウイルスが、正常細胞をがん化させる秘密を解くことを決意しました。がんは、細胞が本来持っている遺伝子原因で起こるという、その研究結果は、人々の考えを革新し、これによって二人は、1989年にノーベル生理学・医学賞を受賞しました。
研究について良く知られている一方、ビショップはUCSFで人気のある教師でもあり、大学の優良教育賞を二度も受賞しています。加えて、公立学校での科学教育を推進する、大学のアウトリーチ・プログラムにも尽力しました。彼は、言います。「科学は時間を超越する文化の力です。誰も自分自身が、時間の無い世界や科学の一般知識の無い将来を想像できないでしょう。科学は、発見や学習の原動力でもあります。だから、その原理は誰にとっても役立つものなのです。」
1998年から2009年まで、J・マイケル・ビショップはUCSFの学長職におり、そこで研究室を構えていました。彼は、カリフォルニア州サンフランシスコで、妻と暮らしています。二人の息子がいます。もし生まれ変わるなら、ビショップ博士は、ずば抜けて優れたストリングカルテット(弦楽四重奏)の楽士になりたいと思っています。
マイク・ウィグラーは、科学者になろうと決める前、両親の家で仕切り直しをするために、一学期の間、大学を休んでいました。
酵母には約6,000の遺伝子があり、ヒトには約40,000[訳注:2015年の時点では約21,000と推定]の遺伝子があります。私たちはどこから他の遺伝子を得たのでしょうか?