テーマ 40生き物には共通の遺伝子もあります
マイク・ウィグラーのグループは、世界で初めて、ヒトのがん遺伝子をクローン化し、その性質を調べました。マイク・ビショップとハロルド・ヴァーマスは、レトロウイルスがどのようにして、通常細胞をがん細胞にするかを突き止めました。
マイク・ウィグラー(1947-)
マイク・ウィグラーの科学者としての道のりに影響を与えたのは、郊外での退屈な暮らしだったと言えるでしょう。家族が[ニューヨーク市]ブロンクスに引っ越すまでは、彼は、公園で友達と野球をしたり、ヘビを捕まえたりするのが好きでした。
「街を離れるのは、とても残念でした」ウィグラーは、振り返ります。「なぜって、街にはたくさんの公園があり、子供たちが遊んでいます。郊外に引っ越してみると、そこは文字通り、自然がいっぱいだったのですが、公園は少なく、子供たちは外で遊んでいませんでした。」
ウィグラーは、退屈な時間を勉強に振り向け、5年生の時には、化学の勉強を始めました。「きっかけは、ロケットを作りたかったこと。それには、燃料や酸化・還元についての知識が必要でした。というよりは、爆弾作りをしたかったのです。」
彼の計画は、高校で化学の教師をしていた父親によって、打ち砕かれました。父親は、危険物を家に持ち込むことを禁じたのです。化学に対するウィグラーの興味は、大学に行く頃には、数学や物理に移っていき、プリンストン大学の数学科に通うことになりました。
プリンストンではウィグラーは優秀で、二年生の頃には、大学院の授業を受けるようになっていました。とある休暇を両親の家で過ごしていたとき、ウィグラーは、決意しました。数学を離れ、人を救うために人生を捧げるため、医学部へ行くことを。
「数学は、社会との関連性が希薄なのです。」がん遺伝子探索に関する“Natural Obsessions[自然な執着]”という本の中で ウィグラーは、述べていました。「長い目で見れば、社会に役立ちます。しかし、短期的に見れば、数学は自閉的な活動です。私は、自分の人生の中で、何か社会的に役に立つことをしたいと思ったのです。」
ラトガース大学の医学部をなぜ、修了しなかったのかを聞くと、ウィグラーは、「落ちこぼれたからです!」と、嬉しそうに答えました。しかし現実には、ウィグラーの心は、再び、揺らいでいました。爆弾作りを考えるかわりに、チェスのトーナメントを楽しむようになりました。結局、彼は再び休暇を得ることになりました。
ニューヨーク・タイムスを読んでいた時のこと、求人欄に、コロンビア大学のバーニー・ワインスタインのもとで、技術員の募集があるのを見つけました。「私は、ワインスタインが探している人材ではなかったでしょう。しかし、彼は私に、パートタイマーとしての仕事を与えてくれました。軽い気持ちで、仕事をしていたと思います。後に、自分の人生で何をしたいかを、はっきりと見いだすまでは。」
ワインスタインは、がんに興味を持ち、DNAに変異を与える発がん性物質について研究していました。数学で鍛えられ、生物学者を気取った医師の傲慢さを感じてきたウィグラーは、ワインスタインの研究は、徒労に終わると思っていました。「私には、はっきり分かりました。がんの原因が変異なら、がんは、変異の病気だ。がんを克服する、これは私にとって、とても興味深いテーマでした。そのために、遺伝子を扱うツールを開発する必要がありました。」
ウィグラーは、コロンビア大学のリチャード・アクセルのもとで、大学院生として、これらの遺伝学的ツールを開発し始めました。ウィグラーは、遺伝学者がどのようにして、遺伝子を細菌から他へ移行させているのかを学び、動物細胞で同じことをするシステムを考えました。
1979年にコールド・スプリング・ハーバー研究所に移ってから、ウィグラーの研究室などで、ヒトのがん遺伝子を、正常なヒト細胞に挿入するシステムを使いました。正常細胞はがん化し、最初のヒトのがん遺伝子が発見されたのです。
ウィグラーの研究室は今でも、新しいヒトのがん遺伝子を探索し、その遺伝子の機能を酵母や哺乳類の細胞で調べています。ウィグラーが研究室にいないときは、リズム無しでピアノを弾いているか、ブリッジに興じています。
マイク・ウィグラーは、科学者になろうと決める前、両親の家で仕切り直しをするために、一学期の間、大学を休んでいました。
酵母には約6,000の遺伝子があり、ヒトには約40,000 [訳注:2015年の時点では約21,000と推定]の遺伝子があります。私たちはどこから他の遺伝子を得たのでしょうか?