テーマ 40生き物には共通の遺伝子もあります
マイク・ウィグラーのグループは、世界で初めて、ヒトのがん遺伝子をクローン化し、その性質を調べました。マイク・ビショップとハロルド・ヴァーマスは、レトロウイルスがどのようにして、通常細胞をがん細胞にするかを突き止めました。
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- マイク・ウィグラー(1947-)
- ジョン・マイケル・ビショップ(1936-)
ハロルド・エリオット・ヴァーマス(1939-)
ハーバード大学英文学部大学院1年生のある日、ハロルド・ヴァーマスは、人生を脅かされる夢を見ました。彼は、自分が目指している英語教授になっていました。しかし、病気のために授業をすることができません。彼が受け持つ学生は、授業がないことで大喜びしていました。歩きながら、ヴァーマスは思いました。もし自分が医者だったなら、彼が仕事に現れないことを誰も喜んだりはしないだろう。この思いから、ヴァーマスは興味を医学、そして科学へと向けるようになり、最終的には世界最大の生物医学研究所である NIH[米国国立衛生研究所] を運営するに至りました。
[ニューヨーク州]ロングアイランドの南海岸で育った頃、彼の父親は医者をしており、ヴァーマスも最初は、医者になろうと考えていました。彼はアウトドアが好きで、夏には釣り、冬にはスキーを楽しみました。しかし、サッカーや野球には向いていませんでした。チームスポーツが盛んな地方の公立学校に入った時に、彼は読書に傾倒しました。
1957年、ヴァーマスはアマースト大学で医学予科の勉強を始めましたが、学校生活の方に魅了されて行きました。彼の興味は、科学から英文学へ移り、政治学に足を踏み入れ、学内新聞を刊行するようになりました。チャールズ・ディケンズについての卒業論文を完成させた後、彼は、ウィルソン奨学金を手にしてハーバード大学の大学院へ行きました。
大学院を出た後、ヴァーマスは、コロンビア大学内科・外科で医学を学びました。最初は海外で開業することに興味を持ちましたが、インドのバレーリーにあるミッションホスピタルでの見習い期間が、この願望をやわらげ、基礎医学研究に転向しました。最初の研究室は、細菌の遺伝子制御を研究しているNIHのClinical Associate[病院助教]でした。
一年後の1970年、ヴァーマスは、カリフォルニア大学サンフランシスコ校[UCSF] にマイケル・ビショップと共に腫瘍ウイルスの研究をするために移りました。当時、多くの研究者が、これらのウイルスはウイルスの遺伝子を宿主ゲノムに注入することで、がんを引き起こすと考えていました。これを支持するように、腫瘍ウイルスからのウイルス遺伝子が、感染した動物から検出されました。しかし、ヴァーマスとビショップはこれらのウイルス遺伝子が、最初は動物細胞から盗まれたことを発見しました。がんを引き起こす遺伝子は、ダメージを受けるだけで、自らの遺伝子に由来したのです。この成果により、ヴァーマスとビショップは、1989年にノーベル生理学・医学賞を共同受賞しました。
ヴァーマスはUCSFに1993年までいて、その後2009年にフランシス・コリンズに引き継ぐまで、NIHを運営しました。「彼は、辛抱強く仕事をしていたとは言えない」、「彼は、自分の研究室以外での管理経験は無かった」と、彼の友達は言いました。しかし、ヴァーマスは、両党(民主、共和)の下院議員のエゴに一撃を加えて、NIHの予算を110億から160億ドルへ増加させました。また彼は、病気を治すことに主眼を置いた研究ではなく、生命を理解することを目的とした研究など、基礎科学の研究予算を増加させることに成功しました。
ノーベル賞を受賞し、一般教書演説の際、ヒラリー・クリントンの隣に座っていた一方で、ワシントン内外のほとんどの人々は、彼が誰だかを知りませんでした。彼が、ハーバード大の学位授与者に選ばれた際、学生新聞は彼を「Dr. Who」と称しました。地元のコーヒーショップでは、彼が、古くて汚いサイクリング用品を身につけて歩いていたので、客からルンペンと間違われました。
ヴァーマスは、ニューヨーク市にあるメモリアル・スローン-ケタリングがんセンターを2000年から2010年まで、会長兼最高経営責任者として運営しました。その後、米国国立がん研究所[NCI] の所長に任命されました。彼は熱心な自転車乗りで、ジャーナリストと結婚し、二人の息子がいます。
マイク・ウィグラーは、科学者になろうと決める前、両親の家で仕切り直しをするために、一学期の間、大学を休んでいました。
酵母には約6,000の遺伝子があり、ヒトには約40,000[訳注:2015年の時点では約21,000と推定]の遺伝子があります。私たちはどこから他の遺伝子を得たのでしょうか?