テーマ 25一部のウイルスはRNAに遺伝情報を持っています
デビッド・ボルティモア、ハワード・テミン、レナート・ダルベッコは、1975年のノーベル生理学・医学賞を共同受賞しました。腫瘍ウイルスと細胞の遺伝物質との相互作用に関する発見に対しての受賞でした。
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- デビッド・ボルティモア(1938-)
ハワード・マーティン・テミン(1934-1994)
ハワード・テミンは、フィラデルフィアに生まれました。父親は弁護士で、母親は市民教育の仕事に関係していました。テミンは生物学に興味があり、高校生の時、メーン州のバー・ハーバーにあるジャクソン記念研究所の夏季研究プログラムに参加を認められました。テミンは4回の夏をそこで過ごし、生物学研究の世界を知りました。
高校卒業後、テミンはスワースモア大学に入り、生物学を専攻しました。1955年、彼はカリフォルニア工科大学の大学院に進みました。生物学から始めたものの、彼は動物ウイルス学に深く興味を持つようになりました。彼の博士論文は、レナート・ダルベッコの研究室で行ったラウス肉腫ウイルス[RSV]についての研究でした。博士号を取得した後、彼は博士研究員として、ダルベッコの研究室に、もう1年とどまりました。この間、彼は自分のプロウイルス説を作り上げました。この仮説はRSVや他の RNAウイルスは細胞に入り、宿主のゲノムに取り込まれる前に、ウイルス自身のDNAのコピーを作るというものでした。
1960年、彼はウィスコンシン大学マディソン校の助教の地位を申し出されました。次の4年間、地下の研究室で、テミンは自分のプロウイルス説を証明する実験をしていました。彼は成果を1964年に発表し、1975年のノーベル生理学・医学賞をデービッド・ボルティモアとレナート・ダルベッコと共に受賞しました。腫瘍ウイルスと細胞の遺伝物質との相互作用に関する発見が受賞対象でした。
テミンはウィスコンシン大学マディソン校にとどまり、正教授になりました。1974年、彼は、ウイルス腫瘍学と細胞生物学のアメリカがん学会教授になりました。彼はまた、“Journal of Virology[ウイルス学雑誌]”、“Journal of Cellular Physiology[細胞生理学雑誌]”、“Proceedings of the National Academy of Sciences[米国科学アカデミー紀要]”などのいくつかの学術誌の編集委員でした。
テミンはウィスコンシン大学マディソン校のキャンパスで、すぐ彼だと分かる姿をしていました。彼は毎日、研究室への行き帰りに、湖畔に沿った同じ道を、徒歩か自転車で通っていました。1998年、大学は彼の栄誉を記念して、その道をハワード・テミン湖畔の道と命名しました。
テミン自身は喫煙していなかったのですが、1994年に、肺がんで亡くなりました。
多くの科学者と同様に、デビッド・ボルティモアとハワード・テミンは、科学者としての道を早くから歩み始めました。2人共、高校でのプログラムに参加して、夏の間、研究室で働きました。
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